「不登校」についての当校の基本的な考え方

「不登校」についての認識は、保護者や公教育の現場、不登校児支援を行なっている公的機関やフリースクールなどでそれぞれ異なりバラバラです。 フリースクールや相談サービスなどにおいては、ある種のビジネス的配慮からこうした根本的な考え方をまったく提示していなかったり、オブラートに包むようにボカしてしまっている事が多いようです。
しかしながら、親が大切な子供を託す上で「問題」に対する理解と認識の一致ほど大切なことはありません。
ここでは、当校の不登校および関連する事項についての基本的な認識と考え方の方向性を提示したいと思います。

不登校は問題(良くない)行動か?

不登校は良くない環境などに対する子供達の正常な反応であり、まったく問題にするべき行動ではありません。 むしろ私たちは、あらゆる重篤かつ未解決の問題を抱えた今の「学校」にまったく違和感を感じず、何も気づかない子供達の方をその将来も含めて心配してあげるるべきではないかと考えています。
文科省も平成28年9月の不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)において”不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を「問題行動」と判断してはならない”としています。

不登校の原因は学校か?子供か?家庭か?

少なくとも日本においては多くの場合、不登校の原因は学校と家庭にあります。
学校は、昨今すっかり歪んでしまった日本社会の縮図であり、残念なことに教育現場は不正・不公正・不透明・責任逃れとイジメの温床となっていて、世の縮図どころか悪い部分を濃縮したような環境になってしまっています。 戦前から「富国強兵」の柱として構築されてきた日本の学校教育は、戦後から高度成長期にかけて「経済成長」の柱として、従順で均一で行儀の良い、つまり集団として扱いやすい人材を「大量生産」してきました。 またピラミッド型組織を作る基準として「成績・学歴」が重視されテストの成績が良ければ、良い大学に入れて、良い就職や組織内での出世が確実になるという「学歴社会」という「虚構」が長い間続きました。 バブル崩壊から数年で「学歴社会」から「能力社会」へと大きな変化が始まり、ごく一部(数パーセントの大企業)を除いて「学歴神話」は崩壊しました。
どんなに勉強を頑張っても「学歴」の恩恵を得られるのは有名大学に入れる数パーセントの学生で、あとはその踏み台となるしかない状況、つまり東大など有名大学のランクのために下々の大学があるような構造になっていて、負け組に残るのは潰しの効かない学歴だけ、昔のように下々には下々のそれなりの就職口などもうないのです、大学卒でも5人に1人、大学院修了でも10人に1人は非正規雇用、たとえ正社員になれても職場の状況は昔よりも過酷、就職して3年以内に30%が退職し、10年以内に60%が退職しています。 チャンスを掴み生き残れるのは「勉強以外の何か」をしっかり持っている人、企業はそれを見極めて採用するようになっており、近年Apple社やGoogleなどの先進企業は次々と「学歴」を採用条件から外しています。
 「学歴」を役に立てられるのは一握りの勝者だけ、それでも「かけっこ」と同じで、入賞者の1番2番3番のためには4、5番とビリなどの敗者が必要なのです。 ビジネスの世界では「競争」は最終手段であり、競争の激しい市場(レッドオーシャン)は絶対に避けるべきとされています。 なぜならそこには「負けるリスク」だけではなく「無駄な消耗」があるからです。 利口な経営者は競争のない(ブルーオーシャン)かつ自分の得意なフィールドでビジネスを仕掛けます。 一流のコンサルタントが「このジャンルはたくさんの企業が参入してめちゃくちゃ競争激しいですけど、御社もぜひ挑戦してみてはどうでしょうか? みんなやってるからこっちで間違い無いですよ」なんて絶対言いませんよね。こんなことは素人でもわかる話です。 このような時代に大半の子供達を共通入試試験によって画一化された学力競争に十把一絡げに追い込み。順番争いをさせることがいかに馬鹿げているか。
その結果はどうなってしまっているか。十分に情報収拾をしている親であれば少しは理解していると思います。
それでも「学歴神話」を信じている親や教師たちは勉強!勉強!と子供達を追い込んで行きます。 効率よく子供達を追い込むためには心理的に
 1、みんなと同じようにしていないとまずい。(負け組を含め、多くが参加しないと競争状態にならないため)
 2、その中で出来るだけ競争に勝たなくてはならない。(競争状態を維持するため)
と思い込ませることです。
 学校にはそういう心理状態を作るためにいろいろな仕掛けがあります。 教師による学級内での比較、宿題、定期テストや運動会などでの競争と順位づけ。 朝礼から始まる団体行動、運動会での一糸乱れぬことを是とする団体競技、例を挙げればキリがないくらいですが、これらはとても複合的に作用して強力な効果をもたらします。
たとえば、学校に遅れてくる子や宿題をしない子がいた時に最初に文句をいうのは教師では無く同級生たちです。 集団による異物排除の反応による「相互監視社会」です、これが働くことによって教師たちは目の届かないところでも生徒を効率よく管理することができます。
すべての学校には「みんなと同じようにしない」「テストの成績に興味をもたない」「平気で遅刻や欠席をする」「先生に怒られてもあまり気にしない」といった集団や競争から外れていこうとする子に対して「自分だけ」とか「ずるい」とかいう反応が自動的に起きる「場」が形成されていて、小学校2〜3年から始まり高学年になるにしたがって強化されていきます。 これが日本の学校の仕組みが生み出す「相互監視社会」=「イジメ社会システム」です。 なので日本の学校が「ウチの学校にはイジメはない」とか言ったらこれは全部ウソなんです。 「イジメ社会システム」なしには日本の学校も学力競争も成り立たないのですから。 もし子供達みんなが自由になって自分の得意分野と興味分野に向かいはじめたら「学力競争」は崩壊してしまいます、高校受験という関所に「内申書」という脅迫材料があるから言うことをきいていた子供達はどうするでしょうか? 学習の成績や進学率、合格率などを基準にお互いを評価していた教師の世界はその基準を失いますね。次世代の基準づくりは表面上は進んでいるかのような話は流れていますが中身はまるで変わっていませんからそうなるともう教育現場はガタガタになってしまいます。 だからこそ職員室の中ですら正義が通用しないような状況が必死で守られ、未だ変わらないわけです。
では、不登校となる子供達はどういう子供達か? 
まずタイプ1は、学校側の仕掛ける「洗脳」が効かない純粋にマイペースな子供たちです、このタイプの子達は周りに合わせなくてはならないという意識にならないので、あちこちでハミ出して、多くの場合は「自分はダメな人間なんだ」と思わされたり、イジメの対象になってしまいます。
タイプ2は、運良くこの学校社会の「異常性」に気づく感性を失わずに育った子供たちです。 「集団行動」「競争」「相互監視」こういった異様な社会に違和感を感じたり、そこに居ることを辛く感じたりして学校に行きたくなくなるというケースです。
いずれにせよ、原因は「学校のもつ特殊な社会性」つまり「集団性」、「無駄な競争」、「相互監視社会」=「イジメ社会システム」などにあるわけです。
ここでは、全体像をざっくりと説明しましたが、これだけではうまく伝わらず異論を感じる方もいらっしゃるかもしれませんので、また別のドキュメントで一つ一つについて詳細に書きたいと思います。

不登校は、後ろ向きか?無気力やさぼりではないか?

不登校は、それを決めた子供にとっては明らかに「前向きの判断」です。 親の生活に依存している子供にとっての「学校」には、大人になってからの職業選択のように多様な選択肢がありません。 なので、自分に正直に生きるには「とりあえず行くのをやめる」という選択しかないことになります。 最初から親の賛成や理解がある場合は稀ですし、たとえあったとしても他の人たちとは異なる「不登校」という道を選択するにはそれなりの「気力」が必要です。
なので、「無気力」だから学校に行かない、というのは完全なる誤解です。 周囲の賛成や理解が得られず、考えや行動を否定され続けると誰でも元気が無くなります。 教師や学校に行かせたい親の価値観でそれを一方的に無気力やさぼりと断じてしまっているだけです。
本人が判断に迷ったり、親の賛成が得られず、時間がかかってしまった場合は、元気が無く無気力に見えるかもしれません、もちろん精神的・肉体的に休ませてあげる必要はあると思いますが、十分に休養して「元気」が戻ったからといっても、子供にとってその「気力」は学校に戻るためにあるものではないのです。

学校に戻すべきではないのか?

元々の学校に戻るのが良いのか、それ以外の場所で学習するのが良いのか? これは不登校の原因と本人の自覚によりますが、いずれにせよ本人の判断と行動に任せるべきです。 もちろん、親としても最善の方向を考えて提案していくことは良いことですが、根っこの部分で相互理解が出来ていないと、容易にエスカレートし、自殺や引きこもり、DVなど家庭内の問題に発展する恐れがあります。(このトピックは編集中です)

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