これからの教育とは? 親として考える。

wikipediaによると教育(education)とは「人の持つ諸能力を引き出すこと」とされています。
また、リチャード・ピーターズによっては以下のように定義されています。

  1. 教育内容 – 価値あるものの伝達
  2. 教育効果 – ものの見方が広がる
  3. 教育方法 – 学習者の理解を伴う

まず、1の価値あるものの伝達というこの「価値」は、長い間「普通」という言葉でひとまとめにされてきましたが、現代では個々人において非常に多様化し個別化しているので、それぞれの児童生徒において異なるということになります。

つまり、教育内容は個々人において異なるということになります。次に2の教育効果ですが、日本のこれまでの教育について考えると「ものの見方がが狭まる」ことはあっても「広がる」というイメージはあまりないのではないでしょうか?

 学校で用意される問題にはあらかじめ用意された答えがあり、それを暗記するか、または出題者が想定したように答えなくては点数が取れないような仕組みがあまりに長く深く続き、教育プロセスに深く影響したために必要以上に考えないような抑制が働いていたせいかもしれません。

いずれにせよ日本の学校においての教育効果はテスト偏差値などで測定可能なものをもっとも重要な効果として求めているので「ものの見方が広がる」ような効果はこれまでの教育方法ではあまり期待出来ないと言えるでしょう。

そしてその教育方法についても、日本のこれまでの教育においては学歴社会の要求により相対的に測定比較が可能な学力というモノサシを維持するためには系統学習(学問の体系的な構造に従って系統的に教育を行う)が中心になってしまうため、個々人が自発的に課題を見つけその解決を通して学習する(より個々人の価値に近づけて、かつものの見方も広がる)問題解決型の学習方法には向けづらいと言われています。

 バラバラの方向でバラバラの問題とバラバラの答えを見つけられては集めてテストで点数をつけて順番をつけるのは困難ということですね。つまり1、2、3、いずれにおいても「これまでの日本の教育」というものが完全に行き詰まっていることは明らかです。また、教育というものには個人に知恵や考える力を与えるという側面と、国や社会が個人をうまく利用するために作り出している側面があります。

「教育とは誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」という定義をしている学者もいます。
教育は他者に対してなされる行為であり、教育がなくとも学習は可能である。(広田照幸(2003)『教育には何ができないか-教育神話の解体と再生の試み-』春秋社 pp. 8-10)

親として学習は必要であっても、国や社会に意図的に動かされるための教育は必要でしょうか? それよりは「社会を動かす」ための学習の方が子供の人生には役に立ちそうです。

少なくとも公立の小中学校がそのような方向になるようには見えませんし、当然国として積極的にはなれないのではないでしょうか、国としては「教育」が必要なわけですからね。

ただ、子供たちや親が公教育から離れていかないような努力はするのだろうと思いますが、中身が変わることは期待できませんし、なにしろ時間が間に合いません。

とはいえ公教育を脱出し、高額な費用と時間や距離の問題を解決して私立の教育を受けさせられるのはごく一部の限られた親たちです、多くの親は時間的コストと金銭的なコストそして自己の能力と子供のシアワセを天秤にかけなくてならなくなるわけですね。

これからの教育に必要なのは子供たち一人一人のもつ特性や価値観に出来るだけマッチした「教育内容」これはそれを見つけるためのプロセスや技術も必要となります。

そしてそのそれぞれの教育内容にマッチしていてなおかつこどもが自発的に課題を見つけて意欲的に学習できるような問題解決型の「教育方法」ですね。

当然それにより得られる「学習効果」は間違い無いでしょう。

親として、答えは見えてきましたでしょうか? 
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